ある学校で期末試験がいつものように行われました。ところがどうしたことでしょうか、クラスで成績の悪い数名の子供たちが、かなり良い点数をとったのです。 『なあんだ、本当は結構頭がいいんじゃないか』と先生は思いました。 実は、採点が間違っていただけなのですが、先生はその事を知りませんでした。ところが半年後、彼等は実力をつけ、本当に成績が上がってしまいました。 皆さんにはこの理由がおわかりでしょうか。 その原因は、この教師にありました。それは、無意識のうちに、この教師の彼らに対する態度、教える態度が変わっていたということです。教師の彼らに対する期待度が変わったのです。 上記の話は『心の体操』という本に載っていた実話です。人間というものは実に不思議なものだなと思いませんか。しかし同時に、これは恐ろしいことだなとも思いませんか。 つまり、その人がどう評価されるかによってその人の一生までもが決まってしまうということです。これは学校の先生と生徒の関係に限ったことではありません。家庭における親子の関係、職場においては上司と部下の関係、もっと視野を広げれば、社会において自分がどんな目で周りから見られているか…。 きょうも多くの家庭で、子どもたちはこんな言葉を聞かされているのではないでしょうか。 「ほんとにおまえはどうしようもない子だね」 「おにいちゃんはいい子なのに、おまえはぐずで役立たずなんだから」 「いくらがんばってもどうせおまえはだめなんだから、期待なんかしていないよ」 人は評価されるように(期待されるように)なってゆきます。それは他人の言葉ばかりではありません。自分が自分自身の心に向かってささやく言葉も同じです。自分自身をどう評価するかによってその人の人生が方向づけられてしまうのです。 「自分はだめだ、だめだ」と思っている人は本当に駄目な人になってしまいます。と言っても、偽って自分を評価しろと言うのではありません。自分の欠点、弱さはありのまま認め、正直に評価すべきでしょうが、そのことによって自分を『だめ人間』と考えてしまわないということです。 主イエスは漁師の一人、シモンに目を留めて言われた。「あなたはヨハネの子シモンです。あなたをケパと呼ぶことにします。」 (ヨハネの福音書1章42節) 主イエスは現実の姿を知り、「あなたはヨハネの子シモンです」と言われました。しかし同時に、彼の内にある可能性にも目を留め、彼をケパ(岩)と呼ばれたのです。それは彼が後に教会の基盤(岩)たる大人物になる事を意味した言葉でした。 創造主なる神は私達のうちにある可能性に目を向けて評価してくださいます。