(No.4)客を呼ぶエビ

 

 昔、峠の向こうとこちらに茶屋があった。 ある日、ひとりの見知らぬ僧がやって来た。だんごをたらふく食ってお茶を飲んだが、さて銭は一銭も持ち合わせていないと言う。茶屋のおかみは「それは困る。払ってもらう」と言うと、「銭は無い。代わりに絵をかいてしんぜよう」と言うと、わらじの裏に墨を塗り、それでもってあっという間に壁に絵をかいて立ち去った。黒いカラスの絵であった。  その店にまた客が来た。その客、珍しい絵があるので眺めていると、そのカラスの絵がピクリと動いた。 「おかみさん、この絵はすごい。生きているぜ」と言うのに茶屋のおかみは信じない。 「なんだ、こんなつまらない絵」 客の去った後、おかみは布を掛けてその絵を隠した。  さて、先ほどの坊さん、峠を越えたもう一軒の茶屋でもだんごをたらふく食って絵をかいて立ち去った。 黒いエビの絵であった。  その店に別の客が来た。その客、珍しい絵があるので眺めていると、そのエビの絵がピクリと動いた。 「おかみさん、この絵はすごい。生きているぜ」と言うので茶屋のおかみはたいそう喜んだ。その茶屋の壁にかかれたエビは村中の評判になり、毎日、行列をつくるほど客がやってきた。  一方、峠の反対側の茶屋には客はひとりも来なくなった。壁のカラスには覆いが掛かったままだった。そこへ例の坊さんがまたやってきた。おかみが「なぜ、こんなつまらぬカラスなどかいた」と言ったら僧は黙って立ち去った。  坊さんはもう一軒の茶屋にも立ち寄った。おかみが「この絵はなかなかのものだが、エビは黒より赤がいい」と言うと坊さん、あっという間にエビを赤く塗り替えて立ち去った。  ところがどうしたことか、それからというもの客がぱったり来なくなった。今までピクピクと動いていた絵のエビは全く動かなくなってしまった。  それもそのはず、生きたエビは黒い色。赤いエビはゆでたエビじゃから動くはずがない。今となっては後の祭り、惜しいことをしたもんじゃ。(日本昔話より)  さて、動く絵を描ける人がいたかどうかは別として、ここに登場する二人のおかみさんは大変残念なことをしたものです。せっかくの烏の絵に覆いを掛けたのも、黒いエビを赤く変えてしまったのも。 二軒目の茶屋に大勢のお客が来るようになったのは、エビがピクピクと動いたからです。 ありふれた黒色の墨絵でしたが生命力に溢れた絵でした。 一軒目の茶屋に描かれたカラスも同じでした。おかみさんにはつまらないものに見えましたが、最初にそれを見た客の心を打ちました。その絵にはいのちがあったからです 私たちも二人のおかみさんと同じような過ちをしないともいえません。 人の価値は見かけではありません。いのちあるゆえに尊い価値があると言えます。 「俺はつまらない人間だ」とか、「この子はどうしようもない子だ」とか言って覆いを掛けてしまうことはないでしょうか。また、「黒色より赤い方が良いに決まっている」と言って、子供を一律に型にはめて育てようとする傾向はないでしょうか。 私たちは一人一人、天から個性を授かっているにもかかわらずそれを恥じたり、他人によく見せようと見栄を張って黒いエビが赤いエビになろうとします。そして、せっかくいきいきとした生まれながら持っていた生命力を窒息させ、つまらない人間に変身してしまうのです。人の無責任な評価や、流行の声に振り回されてはなりません。 見た目は、つまらない価値のない人間のように他人に思われても、私たちの価値はそんなところにあるのではありません。もし私たちがいきいきと輝いて生きているなら、(たとえ病の中にあっても)そこには生命が溢れていますから、他の諸々の価値は色あせて見えるのです。

 
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